世界に挑み続けたバスケ人生。バスケ界の坂本龍馬になると決意し長崎へ。

MY ROOTS 〜あなたの人生を深掘りさせて下さい〜
誰にでもある、過去から今に至るまでの物語。
「人」にフォーカスし、人生のROOTSを探ることで見えてくるその人の考え方や生き方は
誰かの生きる糧にもなるはず。
「長崎の人」のROOTSを一緒に探しましょう。

MY ROOTS 第3弾の 「人」 はこの方です。

中川和之さん

中川和之(なかがわ かずゆき)さん
株式会社GLOBAL-Bの代表取締役。
山口県下関市に双子の弟として生まれる。
9歳からバスケットを始め日米通算13年間プロ選手として活躍。
プロ引退後、環太平洋大学(IPU)にて、6年間ヘッドコーチを務める。
2024年4月に長崎に拠点を移し、クラブチームDIVER CATS NAGASAKIを設立。

DIVER CATS NAGASAKI
小学生(U-12)・中学生(U-15)のバスケットクラブチーム。
長崎から世界を目指せる人材の育成を行う。瓊浦高等学校体育館で練習は火曜・水曜・金曜・土曜に実施中。

橋本

今回、インタビューに応えて頂くのは中川和之さんです。本日はよろしくお願い致します。

中川さん

宜しくお願いします。

橋本

中川さんのご出身はどちらですか?

中川さん

生まれも育ちも山口県下関市です。

橋本

長崎にはいつ来られたのですか?

中川さん

今年(2024年)の春です。

橋本

何故、活動拠点に長崎を選んだのですか。

中川さん

現役を引退して、バスケ界の坂本龍馬になると決めたからです。坂本龍馬のルーツである長崎を選びました。
また、クラブチームの名前にもあるように僕は猫が大好きなので、猫とゆかりのある街だからというのも理由のひとつです。あとは、210年続いた鎖国の間も、世界と繋がっていたのは長崎だけだったので、これから世界を目指す人材を輩出する上でグローバルな街は長崎しかないと思いました。

橋本

中川さんのご家族のことを教えてください。

中川さん

僕は双子の弟として生まれました。3つ上に兄がいて男の三兄弟です。父はバスの運転手で、母はお弁当屋で働いていました。

バスケットと出会った9歳の秋

橋本

中川さんはどんな少年だったんですか?

中川さん

地元が田舎で山と田んぼしか遊ぶところがなかったので、自然の中でよく遊んでいました。

橋本

幼少期から運動神経は良かったのですか?

中川さん

運動音痴でした。野球やサッカーをしても全然ダメで、跳び箱も全く飛べなかったです。野球はボールが恐くて全くダメでした。当時は監督から叩かれて、怒られて、全く楽しいと思わなかったです。

橋本

運動が苦手だったのに、何がきっかけでバスケットを始めることになるんですか?

中川さん

バスケットは小学3年生の秋に始めました。きっかけは掃除の班が同じ、3つ上の先輩からの誘いです。その先輩がとても恐くて、地毛が赤い髪で見た目も恐かったので、逆らうことなんてできなかったです。結果、強制的にバスケを始めることになりました。

橋本

その先輩はバスケットも上手だったんですか?

中川さん

チームではエースでしたね。バスケが上手で見た目も格好いい人だったので地元では有名でした。

橋本

バスケットをやってみてどうでしたか?

中川さん

初日の練習からバスケに夢中になりました。もう楽し過ぎて、達成感が半端なかったです。練習が終わって疲れ切って体育館に倒れ込みました。その時に見た天井のライトの光を今でもはっきり覚えています。

橋本

バスケットの何が楽しいと思ったのですか?

中川さん

シンプルにゴールの輪の中にボールを入れることが楽しかったです。ボールを入れるとチームメイトが褒めてくれました。それが何よりも嬉しかったです。それまではスポーツをしても怒られることしかなかったので、バスケットがより楽しいと感じました。

橋本

その時の監督さんは怒るタイプではなかったのですか?

中川さん

怒るというより「走れ〜」としか言わない人でした。監督に褒められるというよりチームの仲間から褒められるのが嬉しかったです。

橋本

双子のお兄さんも一緒にバスケットを始めたんですか?

中川さん

初日の練習は僕だけでした。最初は双子の兄は僕がバスケをするのが嫌だったみたいで、練習に行くことを必死に止めたんです。最後は殴り合いの喧嘩に発展していました。

橋本

何故、バスケットをさせたくなかったんでしょうか?

中川さん

仲が良かったので、何でも一緒が良かったんだと思います。
初日の練習がとても楽しかったので家に帰って双子の兄に内容を伝えたら自分もバスケをやると言い出したんです。最初にあれだけバスケットをさせないようにしていたのに、今度は兄も始めると言ったので、僕はそれが気に入らなくてまた殴り合いの喧嘩になりました。

橋本

お兄さんはバスケットをやってみてどんな反応でしたか?

中川さん

僕と同じようにバスケットに夢中になりましたね。

橋本

所属していたチームは強かったんですか?

中川さん

友達に声をかけて寄せ集めのチームでしたから、最初は全然強くなかったです。でも僕が6年生・小学校の最後の中国大会で優勝しました。
その後の全国大会の県予選も、余裕で勝てるはずだったんですが、相手チームが最後にハーフからボールを投げて偶然シュートが入って負けました。小学6年生でブザービートで負ける経験をしました。その時にこの悔しさを中学校で晴らすと決めましたね。

バスケットの恩師、鬼教師!小林先生との出会い

橋本

中学校は地元の学校に通ったんですか?

中川さん

そうです。下関市立東部中学校に入学しました。バスケ部の顧問は「鬼の体育教師」として有名だった小林先生という方がいたんです。3つ上の兄が中学校でバスケ部に入っていたので事前に小林先生の話は聞いていました。

橋本

実際、小林先生の練習は厳しかったですか?

中川さん

人生で一番きつい3年間を過ごしましたね。今となっては感謝しかないです。

橋本

練習が厳しかったなら、チームは強かったんじゃないですか?

中川さん

部活に入った時は市内で2位でしたが、その後、全国2位になりました。
この結果を見ればどれだけ練習が厳しかった想像できると思います。

写真提供:中川和之さん 最前列の左から3番目が中川さん

バスケ人生を変えるきっかけとなったナイキキャンプ

橋本

中学校で全国大会2位という結果を残したら、強豪の高校からスカウトが来たのではないですか?

中川さん

高校は特に推薦などではなく、地元の豊浦高校という進学校に行きました。双子の兄も一緒に入学しました。豊浦高校は文武両道の学校だったので、勉強も部活もどちらも手を抜くなという考えでした。
バスケ部は、当時10年間インターハイにも行ってないような状態でした。

橋本

実際、高校での練習はどうでしたか?

中川さん

先輩たちはダラダラと歩きながら練習をしていて、顧問の先生に反抗していましたね。その光景を見て「もう終わった」と絶望感でした。

橋本

その状態を見てバスケット部をやめようとは思わなかったのですか?

中川さん

やめようとは思わなかったです。逆にこの状況を変えようと奮起しました。自分が変われば環境も変わっていくと思いました。すると徐々にチームが強くなっていきました。最初は補欠でしたがインターハイ予選で途中出場して優勝しました。そこから「中川兄弟」が知られていきましたね。

橋本

当時の中川さんは、将来バスケットを仕事にしようと思っていたのですか?

中川さん

僕の時代にはまだプロリーグが国内にはなかったので、プロになるというよりバスケがとにかく上手くなりたくて必死でした。

橋本

今は動画コンテンツやSNSがあるので世界のプレーを参考にすることができると思うんですが、当時は上手くなるためにどのように技術を磨いていたのですか?

中川さん

高校2年生の時にバスケ人生の転機が訪れたんです。東京で開催された「ナイキキャンプ*」に招待されました。全国から選ばれたバスケの上手い高校生たちが集められるんです。僕は中国地方の高校生の中から選ばれました。*ナイキキャンプ:主にアメリカの有名コーチを招いて行う5日間の短期集中キャンプ。

橋本

ナイキキャンプは中川さんにとって、どんな転機になったんですか?

中川さん

世界的に有名なNBAで活躍していた元バスケット選手のジェイソン・チャンドラー・ウィリアムスから、直接ドリブルの指導を受けたんです。その時に「これだ!!」となって、教えてもらった練習メニューを朝から晩まで何度も練習しました。夜中3時に目が覚めて庭に出て練習したり、眠る時も目を閉じて頭の中でイメージトレーニングをしていました。

橋本

高校卒業後は大学に進んだのですか?

中川さん

双子の兄と一緒に専修大学に行きました。大学に入ってから一気にブレイクしました。インターカレッジで優勝したり、大学4年の時には気づいたら敵がいなくなっていました。
常にMVP選手に選ばれて、学生日本代表のキャプテンも務めました。

橋本

その頃にはさすがに、バスケットを仕事にしようと思ったのではないですか?

中川さん

いいえ、全く考えていなかったです。そもそもプロが何なのかもわからなかったです。プロになりたいというよりも、この競技で誰にも負けない人になりたいと思っていました。

橋本

将来に対する不安はなかったですか?

中川さん

不安は全くなかったです。バスケができたらいいと思っていました。どこか無責任だったと思います。とにかく当時は、今、やらないといけないことを必死にやっていましたね。

トライアウトと知らず、旅行気分でLAへ。まさかの契約に。

橋本

双子のお兄さんは大学卒業後はどのような道に進まれたんですか?

中川さん

兄は九州電力の実業団に就職しました。初めて別々の道に進みました。

橋本

ご自身はどのような道に進んだのですか?

中川さん

卒業前に、三菱電気の実業団から内定をもらっていました。しかし、大学の後輩がアメリカの独立リーグABA Long Beach jamのトライアウトを受けることが決まっていて、大学のコーチから一緒にアメリカに行くように勧められました。
実はその時、僕はトライアウトと知らされてなくて、旅行のつもりでLAに行ったんです。

橋本

トライアウトと知らなかったんですか!どんなことをしたんですか?

中川さん

僕は練習だと思っていたので気軽な気持ちで練習に参加して、練習が終わったら美味しいものを食べたり飲んだりして、次の日はまた練習しての繰り返しでした。練習と思っていたのは恐らく僕だけだったと思います。そして最終日の練習(実はトライアウト)が終わったら、突然、チームの関係者が来て、英語で書かれた紙を渡されました。英語が読めなかったので現地の人に訳してもらいました。

するとその紙は契約書でした。知らない間にトライアウトに受かっていたんです。

橋本

一緒にトライアウトを受けた後輩の方はどうなったんですか?

中川さん

落ちました。厳しかったみたいです。

チームに加入後、即解雇。周りの意見を無視し再度アメリカに挑戦。

橋本

三菱電機の実業団の内定はどうしたのですか?

中川さん

アメリカに行くと決めたので、即日、内定をお断りしました。それからすぐにアメリカのチームに入りました。日本のバスケット界では大学在学中のプロ契約は史上初でした。

橋本

実際にアメリカに行ってどうでしたか?

中川さん

すぐに解雇されました。1ヶ月程でクビです。アメリカ人のレベルが高すぎて全く通用しなかったです。

写真提供:中川和之さん
橋本

そんなに早く解雇されるんですか。それから日本に戻って来てどうしたんですか。

中川さん

まだ大学の卒業式も終わっていなかったので、卒業式に間に合いましたね。驚いたのは三菱電機の実業団からまたオファーを頂いたんです。しかも条件は変わらない内容でした。でも僕はアメリカで挑戦したいという熱が消えなくて三菱電機さんのオファーをまた断りました。友人たちからは「お前はバカか!」と言われましたね。

橋本

またアメリカに行ったんですか?

中川さん

LA(西)がダメなら次は東だ!と思ってニューヨークに行きました。
ニューヨークのチームに入って死ぬほど練習をしました。身長が低くても点数が取れる選手になるために研究をしました。そこからレギュラーになり、20点を取れるようになりました。

写真提供:中川和之さん
橋本

すごい。アメリカで通用する選手になったんですね。

中川さん

そうです。その結果なんと、ABAのオールスターの選手に選ばれたんです!
それから20年以上経ちましたがABAリーグで、日本人でオールスターに選ばれたのは、いまだに僕だけです。

写真提供:中川和之さん
橋本

アメリカでは何歳までプレーされたんですか?

中川さん

27歳までアメリカで挑戦をすると決めていました。合間で日本でもプレーはしていました。燃え尽きるぐらいアメリカで挑戦をすることができました。日本に戻って来てなんと2度もオファーを断った三菱電機さんから3度目のオファーを頂きました。さすがに3度目は快く受けました。

燃え尽きたアメリカの挑戦。好きなバスケが生活の為のバスケに。

橋本

日本でプレイをすることになってからはどんなモチベーションでしたか。

中川さん

正直、燃え尽き症候群になっていました。給与も安定していたし、以前のような必死さはなかったと思います。その当時はバスケにこれまで以上に熱くなれなかったです。ここではあまり話せない内容も沢山ありますがプレイヤーとしてはダメな奴になっていました。

写真提供:中川和之さん
橋本

そんな状況でバスケット選手を辞めようとは思っていなかったのですか。

中川さん

これまでバスケが好きで続けて来たのに、いつの間にか生活するためのバスケットに変わっていました。だからと言ってバスケを辞めようとは思いませんでした。結局、色々なことがあって三菱電機のチームの5年目のシーズンが始まってすぐに辞めました。このタイミングでちょうどつくばに新規チームが立ち上がり、上手く移籍することができました。

橋本

新しいチームに入れて良かったですね。新規のチームを強くしようというモチベーションになりました?

中川さん

給与面の条件も人生で一番高い給与でした。さらにキャプテンに抜擢されました。しかし、球団社長が負債運営をしていたことが発覚し、すぐに会社も潰れたんです。

突然、筑波大学の受験を決意。試験までに残り3ヶ月

橋本

えっ!?そんなことが起きたんですか。衝撃ですね。中川さんはどうされたんですか。

中川さん

当時、家の後ろに筑波大学があったので、思いつきで筑波大学を受験してみようと思ったんです。知人に相談したら中川さんの経歴だったら大学院に行けますよと、うまく乗せられて推薦入試を受けたんですけど、見事に落ちました。

橋本

筑波大学が家の後ろにあったからという理由で、大学院を受験する勢いがすごいです。結局、落ちて諦めたんですか。

中川さん

逆に落ちたことによって火が付きました。まだ一般入試があったので受験しようと思いました。入試までに3ヶ月しか期間がなかったのですが、猛勉強しました。結果、受かりました。

橋本

受かったんですか!!すごい。

中川さん

ちゃんと2年間通って卒業しました。

バスケット選手からラーメン屋へ転職を決意するも、大学の女子チームの監督へ

橋本

バスケットはどうされたのですか。

中川さん

最後は東京のチーム(アースフレンズ東京Z)に行きましたが、シーズン途中で辞めることになりました。一旦、地元に戻って奥さんの実家で過ごしていました。その期間中に他のチームからオファーがなければラーメン屋で働こうと決めていました。

写真提供:中川和之さん
橋本

何故、ラーメン屋だったんですか。

中川さん

ラーメンが好きだったので近くにある一蘭に就職しようと思っていました。一蘭だったらお客さんに顔も見られないからいいかなと思いました。

橋本

結局、ラーメン屋で働くことになるんですか。

中川さん

最終決断の日になってもオファーがなかったのでラーメン屋で働こうと思っていたその夜に、ある方から突然、電話が来て「今から会える?」と呼び出されたんです。すると岡山にあるIPU・環太平洋大学の女子バスケットの監督にならないかと言われたんです。そして翌日には岡山にいました。そこから監督人生が始まったんです。
6年間、監督を経験しましたが色々なことがありました。学生の親御さんが出てきて自分の子供を試合に出せと言われたこともありました。あと土下座をしたこともありましたね。自分は間違った指導をしていないと思っても大学の為に頭を下げないといけないことが多々ありました。
色々とありましたが最初はコーチのライセンスすら持っていなかった自分が最終的にはコーチを指導できる「コーチデベロッパー」という資格まで取得できたんです。

写真提供:中川和之さん

選手とコーチは別物。コーチングを学び実践した結果

橋本

何故、コーチングの資格を取ろうと思ったんですか?中川さんの経歴なら必要ないと思いますが。

中川さん

プレイヤーを経験していても、コーチ業は全く別物でした。それまでは、自分が教えたら絶対にもっとレベルを上げさせられると自信を持っていましたが、監督3年目ごろから指導について悩み、自分自身が辛くなってきました。そんな時に自分にとって考えさせられる本と出会い、さらにB級ライセンス講習会に参加して衝撃を受けました。
そこからコーチングについて本気で学び、現場で実践しました。

橋本

コーチングを実践した結果、チームはどうなりました。

中川さん

明らかに変化しました。学生たちの顔つきも変わりました。自ずとチームも強くなり最終的には国体でベスト8に入りました。

写真提供:中川和之さん
橋本

コーチングを学んで、まずは何から実践していったんですか?

中川さん

まず目標を設定して、選手一人一人のことを考えました。何に対しても起きた原因は全て自分だという思考に変えました。選手が失敗したことを責めるのではなく、そうなったのは自分に理由があると原因の矢印を常に自分に向けました。

写真提供:中川和之さん

バスケ界の坂本龍馬となり長崎から世界で活躍する人材を育てる

橋本

これまでの中川さんのお話を聞いて、改めてすごい人が長崎にやって来たと思いました。バスケットが好きな小学生と中学生はラッキーですね。

中川さん

小学生や中学生は大人とは違って吸収力が高いので、僕のコーチングでしっかり彼ら彼女らを成長へ導くことで世界で活躍できる人材を生み出したいと思っています。

写真提供:中川和之さん
橋本

多くの小学生と中学生がDIVER CATS NAGASAKIに入って長崎のバスケット界を盛り上げてほしいですね。本日は中川さんのルーツを辿ることができて本当に楽しかったです。ありがとうございました。

中川さん

ありがとうございました。

橋本のまとめ
バスケットは、体育の授業でやった程度で全く詳しくはなかったのですが、中川さんのお話を聞いて、バスケットの試合を見に行きたくなりました。
中川さんが9歳の時に初めてバスケットに触れて熱中したあの日から、バスケットに対して本気で向き合ってきた姿勢や挑戦する姿に、感銘と羨ましさを感じました。熱中できるものと出会い、好きなことをやり続けていることが羨ましいと思います。
ただ、好きなことを続けることはそう簡単ではないですし、覚悟も必要だと感じました。今でこそ日本にもプロリーグがあり、NBAでは八村選手や渡邊選手などが活躍しているように、世界を目指せる環境が整っています。しかし、中川さんは不安定な環境の中で諦めることなく自分で道をつくった人だと思います。そんなすごい経験をされた中川さんが今後、バスケ界の坂本龍馬となり長崎で何に挑戦するのかとても楽しみです。引き続き、応援を続けたいと思います。

この記事を書いた人

MY ROOTS

『MY ROOTS』ではある人の人生を深掘りし、過去から現在までのストーリーをまとめています。
人の生き方や考え方が誰かの明日の生きる糧になってほしいと思っています。
長崎の魅力ある人たちをご紹介していきます。
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